研究発表(秦益人刻書石の旅)

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●P150号・自作の油絵作品とともに登壇

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秦益人刻書石試論 (発表要旨より)


「秦益人刻書石」と呼ばれる奈良中期の
石製品が存在する。


石は、「周防国椹野川流域の古代地域史や
初期荘園の経営の実態を解明できる 県内最古の貴重な石文資料」として、
平成25(2013)年に山口市の有形文化財に指定される。                                                 

1963、4年頃、現山口市小郡上郷(仁保津)より出土した石は、                      将棋の駒のような圭首状を呈し、上部に穿孔を持つ。                                                   

高さ23㎝、幅15.9㎝、厚さ約3㎝、重さ2.7㎏。                                         表面に「飾磨郡因達郷秦益人石」と古代播磨国の郡郷名と
人名が刻されている―。

出土地の仁保津は、古代周防国吉敷郡にあたる。                                                       付近一帯は、天平年間成立の東大寺領椹野荘の推定域。                                            当時、仁保津は、椹野川河口の海津として機能し、
長登銅山で産出した銅などの積出港としても想定されている。                                                                          
 
吉川真司氏によって〈竿秤のおもり〉と用途の判明した石は、
米や銅などの運賃を決めるための「播磨国を本拠とする海運業者の
持ち物だったのではあるまいか」と推察された。

                              *                   

報告者は、2004年より「ハリマ風土記」と称し、
各地の「風土(風景)」を描く油絵画家である。
その営みの過程において本刻書石との邂逅を果たし
今日に至る。         


本発表では、刻書石を、播磨国飾磨郡と周防国吉敷郡両地域の
「風土(風景)」を〈橋渡す石(石文資料)〉と位置づけ概観。

さらに刻書石を見晴らすための〈借景(絵画史料)〉として、
本年4月2日、山口市陶の春日神社にて半世紀ぶりに
造替奉納された大絵馬《鋳銭司古図》を提示する。
 

ひとつの〝絵解き〟を試みたい。 

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●≪秦益人刻書石≫色鉛筆、紙 2011

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●日時 2017年6月18日()

●会場 山口県立山口図書館レクチャールーム(山口市後河原150-1)

開会10:00   
研究発表10:10~12:10/13:10~14:40
                                                                       (
*針間は10:10~10:35に登壇します。 )



主催 山口県地方史学会

http://www.ysflh.jp/taikai/index.html

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(2017/06/24)

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壇場山古墳(備忘録)

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●≪壇場山古墳に立つ≫ 水彩・色鉛筆、紙

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備忘録

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● 壇場山古墳

● 国指定史跡(大正13年3月3日)
  
所在地:姫路市御国野町国分寺。

● 市川下流域に築かれた前方後円墳。
  全長約143メートル。西播地方では最大規模。
  県下では第3位。
  

● 築造時期は5世紀前半(古墳時代中期前半)とみられる。

● 壇場山(だんじょうざん)の名は「神功皇后が三韓征討の途中、
  この山に壇を築き戦勝を祈願した」とする伝承に由来。

● 周濠をめぐらし、前方部と後円部の間のくびれ部西側には
  造り出しが見られる。
  後円墳頂上の中央部からやや北側にずれた位置には
  竜山石製の「長持(
ながもち)形石棺」の蓋石が露出。
  蓋石の両長辺側には「縄掛け突起」が確認出来る。

● 後円部の南方左右には陪塚(ばいちょう)(第1・第2古墳)。
  北西側にある「山之越古墳(第3古墳)」は、一辺50メートルの
  方墳(
ほうふん)である。 

● 副葬品は早くより散逸。
  埴輪は円筒埴輪・家形・蓋形・楯形などの器財埴輪が出土。

● 被葬者は不明。後の播磨(針間)国造へと繋がる、
  西播磨地域を統治していた、有力在地豪族か。

● 壇場山古墳周辺の市川下流左岸一帯には、
  宮山古墳・見野長塚古墳や播磨国分寺・国分尼寺なども存在する。

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(2016/08/26)  

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ハリマ風土記(試論)・①

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ハリマ風土記

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「ハリマ風土記」とは、画家・ 針間文彦の“絵空事”。                               
荒唐無稽な「芸術風土記」のことである―。


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◆赤れんが
2009年8月。私は、山口県山口市にある                              クリエイティブ・スペース赤れんがを会場に                                     「ハリマ風土記『花』」と題した絵画展を催す。

油彩画を中心に「風景」・「花」・「人々」を描いた                             計25点を展示。
当時43歳の私にとって、念願の「ハリマ風土記」展
開催であった。

会場となった「赤れんが」は、山口市中河原町に建つ。 *
大正7年(1918)、イギリス積みの赤煉瓦構造で造られた
この建物は、
当初、県立図書館の書庫であったという。* *

この建物のすぐ前を「一の坂川」という小さな川が
流れている。                                 
初夏にはゲンジボタルが儚くも舞う清流である。

         *   *   *


中世・室町時代―。

この地の守護大名は大内氏であった。                                 第24代当主・大内弘世(1325~1380)は、
この一の坂川を京の都の賀茂川に見立て、
京風の町づくりをしたと云われている。                           

更に歴代当主の対明貿易独占などによる財力を背景に、                      約200年間、国宝・瑠璃光寺五重塔や
画聖・雪舟に代表される
大内文化と呼ばれる
地方最大の文化都市が築かれた。

         *   *   *

東鳳翩山(標高734・2m)を源に発する一の坂川は
山口市街地を蛇行すると、やがて「椹野(
ふしの)川」と
呼ばれる本流へと合流する。 

椹野川はさらに大小いくつもの支流を集めながら、
吉南平野を南流し、
山口湾から周防灘(瀬戸内海)に注ぐのだ。

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Photo_2 ●≪旅の記憶/祝島≫ 墨、紙

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◆いくつものハリマ
不思議なことに、絵を描くというはなは
“プリミィティブ”な営みと想念は、時に激しく何かと共振し、                                          強くたぐり寄せてしまうことがある・・・・・・。

わたしはその何かをいま、                                         秘かに「ハリマ」と仮定してみたいと思う。                                 

そしてさらに、「いくつものハリマ」という、                                     ゆるやかなフレームを西日本各地に仮設することで、                                         一体どんな「風土(風景)」が私の前に立ち現れて来るのだろう。

真っ赤なスケッチブックをふところに抱く画家の、                              ささやかな旅立ち。

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そもそも、「ハリマ」とは何なのか。

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(2015/04/10)

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畿内七道諸国郡郷名著好字・・・

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●≪『播磨国風土記』 山川出版社 2005年発行≫

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今より1300年前―。
諸国にひとつの官命が発せられた。

           
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 畿内七道諸国郡郷名著好字
 其郡内所生 銀銅彩色草木禽獣魚虫等物
 具録色目 及土地沃塉 山川原野名号所由
 又古老相伝旧聞異事 載于史籍言上

               (*『続日本紀』和銅六(713)年五月甲子条)

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郡(こおり)・郷(さと)の名称には好字(こうじ)を著けよ
郡内に生ずる銀・銅・彩色(染料・絵具)・草・木・鳥・
  獣・魚・虫などの色目(
品目)を具(つぶさ)に記録
土地の肥沃の度合い
山・川・原・野の名称の由来
古老の伝承する旧聞・異事(古い話や変わった事柄)

  これらを史籍(歴史書)に記載して
  言上(
ごんじょう)せよ。
 (*『続日本紀』和銅六年(713)五月甲子(二日)の条) 


             
*


これを受けて諸国の国司(
地方官)が編纂し、
中央政府に提出された上申文書である「解(
)」こそが、
後に『風土記(
ふどき)』と称される国別の「地誌(地理書)」である。

現在、写本として現存する『風土記』は
「常陸(
ひたち)・播磨(はりま)・出雲(いずも)・
豊後(
ぶんご)・肥前(ひぜん)」の五風土記。

(本来存在したはずの六十余国の
『風土記』は散逸し、逸文(
いつぶん)として
一部が後世に書き残されているのみ。)

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『風土記』は、こう始まる。

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常陸(ひたち)の国(くに)の司(つかさ)の解()
古老
(ふるおきな)の相伝(あひつた)ふる
旧聞
(ふること)を申(まを)す事(こと)(*『常陸国風土記』巻首より)

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●≪森永翁(祝島)≫油彩・カンヴァス

 

『播磨国風土記』の現存する唯一の写本は、
京都の公家、三条西家に永らく秘蔵されていた。

この三条西家本は、書風などから平安時代末期の
写本と認められ、昭和四十年には国宝に指定されている。
(現在、天理大学附属天理図書館所蔵)

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乃ち、因達神山に到りて

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●≪広峰山より十四丘を望む≫ 水彩、紙

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十四丘

 
昔、大汝(おおなむち)の命(みこと)の子、
火明(
ほあかり)の命は、気も強く行動も激しかった。

そのため父神(
ちちのかみ)は患(うれ)いて、
子を棄てて遁(
のが)れようと思った。

そこで因達(
いだて)の神山(かむやま)まで来て、
その子を水汲みにやり、
還って来ぬうちに船を出して、遁れ去ってしまった。

さて火明の命は、水を汲んで還ってきて、
船が出てゆくのを見て、大いに怒り猛った。


それで風波を起こして、
その船を追っかけ追いついた。

こうして、父神の船は進むことが出来ずに、
ついに打ち壊された。
 

それゆえ、そこを船丘と名づけ、
波丘と名づけた。

琴が落ちたところは琴神(
ことかみ)の丘、
箱が落ちたところは箱丘(
はこおか)、
梳匣(
くしげ)が落ちたところは匣丘(くしげおか)、
箕(
)が落ちたところは箕形丘(みかたおか)、
甕(
みか)が落ちたところは甕丘(みかおか)、
稲が落ちたところは稲牟礼(いなむれ)、
冑が落ちたところは冑丘(
かぶとおか)、
沈石(
いかり)が落ちたところは沈石丘(いかりおか)、
綱(
つな)が落ちたところは藤丘(ふじおか)、
鹿が落ちたところは鹿丘(
しかおか)、
犬が落ちたところは犬丘(
いぬおか)、
蚕(
ひめこ)が落ちたところは
日女道丘(
ひめじおか)と名づけた。
 

その時、大汝の神が、
妻の弩都比売(
のつひめ)に、
「悪しき子から遁れようとして、かえって風波に遇い、
いたく辛苦(
たしなめ)られたことだよ」とおっしゃられた。

それゆえ、そこを名づけて瞋塩(いかしお)といい、
告斉(
のりわたり)という。

(* 『播磨国風土記』 飾磨郡伊和里条/現代語訳)

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Photo_3 ●≪弾琴男子埴輪(前橋市)≫水彩、紙

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(2013/09/01)

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即ち、御井を闢(は)りき。

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●≪荻原里(たつの市揖保町萩原)≫ 水彩、紙

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原里 〔土は中の中〕

右、荻原(
ぎはら)と名づけたわけは、
息長帯日女(
おきながたらしひめ)の命(神功皇后)が、
韓国(
からくに)より還りお上がりになった時に、
御船がこの村にお宿りになった。

一夜のうちに荻(
おぎ)が一株生えた。
高さは一丈(
つえ)(約3m)ほどであった。
それでこの地を荻原と名づけた。

それでそこに御井(
井戸)
闢(
)りたまひき
だから針間井(
はりまい)という。

その井戸のある付近は田を開墾しない。
また、墫(
もたい)の水が溢れて井泉(せいせん)になった。
だから韓(
から)の清水(しみず)と名づけた。

その水は朝に汲んで、朝にしか使わない。
そこに酒殿を造った。
だから酒田(
さかた)という。

酒をいれた酒船を
傾けて乾かした。
だから傾田(
かたぶきた)という。

米をつく舂米女(
よねつきめ)らの陰(ほと)を、
皇后の従者が通婚
して絶った。
だから陰絶田(
ほとたちだ)という。

それで荻が多く栄えた。
だから荻原という。

ここに御祭する神は、
少足(
すくなたらし)の命(みこと)が鎮座する
(略)

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(*『播磨国風土記』 揖保の郡・荻原里/現代語訳)

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(2013/06/26)

ハリマ風土記(試論)・⑤

Photo             ●≪古代山陽道/国府・駅家図≫

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山陽道

「山陽道」とは、古代の地方行政区画である
五畿七道のうちの一つ。
七道のうち唯一の大路とされた―。


◆八カ国

7世紀後半、ヤマト政権は律令国家の建設にあたり
七道制という広域の地方行政区分を定める。

七道とは、「東海道・東山道・北陸道・山陰道・
山陽道・南海道・西海道」を指す。

山陽道は、現在の兵庫県明石市から
山口県下関市に至る、瀬戸内海沿岸地域を縦断。


都(平城京・平安京)と西海道の総督府・大宰府を繋ぐ、
最重要交通路であった。

山陽道には、「播磨・美作・備前・備中・備後・安芸・
周防・長門」の八カ国が属した。
 


◆瓦葺・白壁・朱塗りの柱

都と七道諸国を結ぶ道路を駅路(
えきろ)と云い、
その道幅は12メートルにも及ぶ直線道路であった。

駅路上には、30里(約16キロ)ごとに
駅家(
うまや)という施設が置かれた。

56駅を数えた山陽道の駅家には、
20疋の駅馬を配置することが
駅(伝)制により定められ、
往来する官人らがこれを利用した。

1986年に発掘された、兵庫県たつの市揖西町の
小犬丸遺跡は、布勢駅の遺構である。

発掘現場からは「驛」・「布勢驛戸主」と記された
墨書土器や
木簡が出土した。

これにより、古代の駅家の存在地が
全国ではじめて確認される。
 
山陽道は、唐や新羅などの先進国から派遣された
外交使節が都に向かう際の国際道路でもあった。

そのため駅家には、「瓦葺・白壁・朱塗りの柱」という
国家の威信を示すための豪華な意匠が施される。

一方、民衆にとっての山陽道とは、
調・庸などの貢納物の運搬や労役を強いられる
過酷な道に他ならなかった。

奈良時代の高僧で、民衆仏教の伝道に従事した
行基(
ぎょうき)(668~749)は、
彼らのための「布施屋」と呼ばれる
救護・宿泊施設を造営した事でも知られる。
               
             


後年、奈良・東大寺の大仏造営の勧進役となった行基が、
摂津から播磨にかけて開いたとされる港の一つに
「室津(檉生泊)」がある。

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(2012/May/05)

ハリマ風土記(試論)・④

Photo                               ●≪夕焼け/シロトピアにて≫ 水彩・色鉛筆、紙

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*飾磨

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「飾磨(餝磨)(しかま)」とは、
播磨国にあった12の郡のうちの一つ。
現在の姫路市を中心とする風土(地域)にあたる― 。

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◆因達の里
『播磨国風土記』によると飾磨郡には、
「漢部・管生・麻跡・英賀・伊和・賀野・韓室・
巨智・安相・牧野・大野・少川・英保・美濃・因達・安師」の
16もの里が存在していた。

郡内には朝廷の直轄領である餝磨屯倉(みやけ)や
播磨国府・国分寺などが存在し、
飾磨は古代より播磨国の一大中心地であった。
 

播磨国府は、現在の姫路市総社本町にある
射楯兵主(
いたてのひょうす)神社(播磨国総社)を中心とする
本町遺跡が比定地とされている。

射楯兵主神社には、射楯(いたて)大神と
兵主(
ひょうす)大神が祭神として祀られている。

『播磨国風土記』飾磨郡因達(いだて)里条では、
射楯大神は伊太代神(
いたてのかみ)と記される。

息長帯比売命(
おきながたらし・ひめのみこと
(神功皇后)が朝鮮出兵の際、
船前に立ち先導役を担ったのが伊太代神で、
この神名にちなみ因達の里名が付けられたとする。

更に、同郡・伊和里条では、大汝命(おおなむち
(大国主の別名)が気性の荒い息子の
火明命(
ほあかりのみこと)を憂い、
「遁れ棄てむ」と船で因達神山(
いだてのかみやま)に到る。

事の次第を知り怒り狂った火明命は、
風波を起こし父神を乗せた船を打ち壊してしまう。

その際に砕け散ったさまざまな積荷の品名が、
「蚕子(
ひめこ)」の「日女道丘(ひめじおか)」など、
市内に点在する14丘の地名起源となったと語られる。

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Photo ●≪八丈岩山(因達神山)≫

◆飾磨港津
因達神山は、現在の姫路市新在家本町にある
八丈岩山(
はちじょうがんざん)(標高173メートル)とされる。

山頂に露出する岩山は、約2億年前に
放散虫などの遺骸が海底に堆積して出来た
チャート岩石である。

ここから南方を望むと、市街地の遠く向こうには
播磨灘が広がる。 


古代の海岸線は、現在より内陸に
深く湾入していたと考えられている。                                    

先の地名起源説話から推測される
因達神山南麓一帯に拡がる当時の景観とは、
飾磨屯倉に付置された飾磨港津を中枢施設として、
多様な貢納物と
人材を乗せた船が行き来する、
古代港湾都市の姿である。
                              
                     


飾磨は、海上のみならず都と大宰府を繋ぐ
陸上交通の要衝地でもあった。
同郡・巨智(
おち)里には「山陽道」の駅家も存在した。

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(2012/04/29)

ハリマ風土記(試論)・③ 其の弐

Photo                                 ●《播磨国風土記地図》

◆最古の和銅風土記
『播磨国風土記(以下『風土記』)』の成立年は不明だが、                      『風土記』の地名表記には国郡里制による「里」表記が                        
用いられている。

(国郡里制は701(大宝元)年に制定され、
715(霊亀元)年頃に国郡郷里制へと改定。)

従って『風土記』の成立年として推定されるのは、
編纂の官命の下った713(和銅六)年から
715(霊亀元)年以前の和銅年間となり、
現存する最古の「和銅風土記」と位置づけられる。

◆十二の郡
『風土記』の編纂者として有力視されるのは、
当時、播磨国庁の大目(四等官)であった
楽浪河内(
さざなみの・かわち)(生没年未詳)という人物である。

当時の播磨国は、十二の郡(明石・賀古・印南・飾磨・揖保・
赤穂・讃容・宍禾・神前・託可・賀毛・美嚢)によって成立していた。

しかし、現存する『風土記』(三条西家写本)は完本ではなく、
巻首にあたる国の総記とそれに続く明石郡のすべての記述、
賀古郡の一部が欠損している。

更に、赤穂郡のすべての記述も失われている。
(赤穂郡の記述は、最初から存在しなかった等の諸説がある。)

従ってこの『風土記』からは、古代播磨の十二の郡のうち                        十(九)郡の国風を、垣間見る事が出来るのだ。
 

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◆『播磨国風土記』の特徴
『風土記』の特徴としては、土地の肥沃の度合い、                          
地名の由来を語るという点においてきわめて熱心なことである。

更に注目すべき特徴としてつとに指摘されるのは、
漢・百済・新羅などからの渡来人に関する伝承や、
それにまつわる地名起源が数多く記載されている点である。

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“新良訓(
しらくに)と号(なづ)くる所似(ゆゑ)は、                        昔、新羅国(しらきのくに)の人来朝(まゐ)くる時に、                                  此の村に宿りき。故、新羅訓とく。”                                

                       (飾磨郡・枚野里の条より)

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後年、文雅の人と評され大学頭に任ぜられた
楽浪河内もまた、五世紀半ば、百済の滅亡に伴い
来朝してきた僧侶の子であった。           

               

興味深いことに、渡来記述のその殆んどは
「飾磨・揖保」郡一帯の、瀬戸内海沿岸地域に集中している。

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(2012/04/21)

ハリマ風土記(試論)・③ 其の壱

Photo                              ●≪『播磨国風土記』/山川出版社発刊≫

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播磨国風土記

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「風土記(ふどき)」とは本来、奈良時代初等に編纂された                           国別の『地誌』を指す。                                           現存する「風土記」を称して「古風土記」とも云う―。

◆風土記の成立
ヤマト政権は7世紀後半より、中国(唐)の律令制を範とした                     中央集権的な国家体制を進める。

この頃、国号も「倭国」から「日本」へと定められた。 

701(大宝元)年、大宝律令の制定。                                     戸籍・計帳の作成による班田収受法を律令制の根幹制度に、                               租・庸・調による稲穀や物産の貢納、雑徭による労役などの租税制、               良賤(りょうせん)から成る身分制や兵役の軍団制などが施行された。

諸国は、畿内七道(きないしちどう)と呼ばれる広域の行政区分のもとに、                       国・郡・里制という地方行政区画が設けられる。                                  中央から諸国に地方官として国司(こくし)が派遣され、                             その下に郡司(ぐんじ)・里長(りちょう)がそれぞれ任じられた。

こうして天皇を頂点とする全国統治を推し進める中央政府は、                   各風土(地域)の国風(くにぶり)を公文書管理する必要があった。
 

『続日本紀』和銅六(713)年五月甲子(2日)条によると、                          官命により七道諸国に以下の5項目の報告が義務付けられた。

 1、郡・郷の名称は、好字(めでたい字)で表記。
  2、各地に産出する銀・銅・彩色(
染料と絵具の材料)・                      植物・鳥・獣・魚・虫等のものはつぶさに色目(種類)を記録。
  3、土地の肥沃の度合い。
 4、山・川・原・野の名称の由来。
 5、古老の伝承している旧聞・異事(
古い話や変わった事柄)の記載。

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◆国別の『地誌』
これを受けて、諸国の国司が編纂し、                                  中央政府に上申した公文書(解)が、                                  後に「風土記」と称される国別の『地誌』である。

写本として現存する「風土記」は、                                   「常陸・播磨・出雲・豊後・肥前」の5ヶ国のみ。

本来存在したはずの他国の「風土記」は、                               逸文(いつぶん)として後世に一部書き残されている。

『播磨国風土記』は、この和銅年間の官命に                                最も忠実に則し編纂された、「風土記」と云われる。(つづく)

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(2012/04/10)

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