ワタル(少年の島)

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●≪ワタル≫ アクリル絵具、カンヴァス

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(2017/10/05)

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おんな 2017

2017
《おんな》  色鉛筆・顔彩、紙 2017年

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(2017/09/05)

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白の情景(雪だるま)

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(2017/01/28)

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森重雪島先生碑

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●名田島に建つ雪島森重先生碑

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森重雪島(
もりしげ・せっとう/1841~1915)は、                               現在の山口市名田島出身の南画家。                                                                       

中国風の故事人物画を最も好くした。

絵を防長出身で京都四条派の絵師・小田海僊(
おだ・かいせん/1785~1862)の            流れをくむ廣洞僊(ひろ・どうせん/1818~1881)に習う。                           

現在、山口市鋳銭司の鋳銭司郷土館には、
明治中葉以前に雪島が彩管を揮(ふる)った
『国司総社参拝及鋳銭司古図』の大絵馬が                               収蔵・展示されている。
                                           (つづく)

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●《鋳銭司古図(部分)》

                      

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(2017/01/04)

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山の日/桑の山

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●≪桑の山(岡村町)≫水彩・色鉛筆、紙

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(2016/08/11)

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祝島(六月)

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●≪祝島(六月)≫ アクリル・ガッシュ/ 紙
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六月。

梅雨の「晴れ間」。

お気に入りの遊歩道の坂道を登る。

そして、いつもの岩場から「祝島」を遠く眺める。

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(2016/06/14)

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鳩よ!

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●《白鳩》色鉛筆、紙

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(2016/01/23)

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周防鋳銭司

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●≪周防鋳銭司跡≫水彩、紙

「鋳銭司(じゅせんし)」とは、
古代に銭貨鋳造をつかさどった役所のこと。
「ちゅうせんし」ともいう―。

◆和同開珎
7世紀後半、律令国家体制を推し進めるヤマト王権は、
中国(唐)の貨幣制度にならい銀銭や銅銭を造り始める。

708(和銅元)年正月、武蔵国秩父(現在の埼玉県秩父市黒谷付近)で
和銅(自然銅)が発見されると、
年号も「慶雲」から「和銅」へと改められた。

さらに鋳銭司が設置され、
「和同開珎(
わどうかいちん)」と呼ばれる国内最初の
流通貨幣が発行されることとなる。

中央政府は和同銅銭に高い価値を付与することで
多大な銭貨発行収入を得た。
これは平城京造営という国家的大事業に要する
膨大な費用の捻出を目的としたものであった。   

鋳銭司は河内国・山城国などの各地に設置されたが、
その中心となったのは
周防・長門の防長二国であった。

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◆周防鋳銭司 
国指定史跡「周防鋳銭司(
じゅせんし)跡」は、
現在の山口県山口市鋳銭司(
すぜんじ)字大畠にある。

椹野川の河口に広がる吉南平野の東部に位置する
鋳銭司と陶の両地区は、綾木川を挟んで隣接しており
かっては「陶鋳銭司村」などの一村であった。

周防国吉敷郡に鋳銭司が置かれたのは、
長門鋳銭所(現在の下関市長府案養寺町)の停止に
伴う天長二(825)年のことである。

以後、周防鋳銭司は約200年間に渡り
全国でほとんど唯一の鋳銭司として
「本朝十二銭」の終焉まで8種類の銅銭を鋳造した。

周防鋳銭司遺跡からは、
鋳造に使った鞴(ふいご)羽口、坩堝(るつぼ)などの
銭貨遺物や、印影粘土板、木製品などが多数出土している。

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陶地区立石に所在する春日神社の拝殿には、
《国司総社参拝及鋳銭司古図》と題された
大絵馬が奉納されている。

画面は、周防国司の一行が海岸線に程近い
総社(春日神社)を参拝する様子を近景に配し、                            丘陵地帯と山々からなる中・遠景を幾重にも積み上げるように                      重層的な空間構成となっている。

さらに「達理山・潟上山・鋳銭場・鍛冶屋・鋳銭坊・銭庫」などといった
14箇所の地名旧跡の書き込み(墨書銘)とともに、
鋳銭師(技術官人)や多くの雑工・役夫らによつて営まれる
周防鋳銭司の「風土(風景) 」が、
鳥瞰的な視点から“地誌的想像力”をもって描かれている。


これより北西約30キロの地には、
「長登銅山」が存在した。

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(2016/10/20)

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臂土器根元

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●≪陶村(陶ヶ岳より望む)≫ 水彩・色鉛筆、紙

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「陶(すえ)」とは、現在の山口県山口市陶地区を指す。
かっての吉敷郡陶村のことである―。



           
                
 
◆八千郷
山口県は本州最西端に位置する。

このため北は日本海、西は響灘、
南は瀬戸内海と三方を海に囲まれており、
長大な海岸線を描く。

県西端部・響灘沿岸の下関市豊北町にある
「土井ヶ浜遺跡(国指定史跡)」は、三百体以上もの
渡来系弥生人の眠る集団墓地として知られる。


古代の山口県域は、東部の周防国、
西部の長門国の防長二国からなる。

周防国は、六郡(吉敷・佐波・都濃・熊毛・
玖珂・大島)四十五郷

長門国は、五郡(阿武・大津・豊浦・厚狭・
美祢)四十郷に分割された。

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古代の陶村は、周防国吉敷郡
に属していた。

吉敷(よしき)郡内には「八田・宇努・中河・益必・広伴・
神前・多宝・八千・賀宝・浮囚(俘囚)」の十郷が存在した。
(『和名類聚抄』)

このうち、椹野川下流域にあたる郷内の閑地は、
東大寺領の古代荘園である
「椹野荘(
ふしのしょう)」として早くより開発された。

陶の属した「八千(やち)」郷とは、
山陽道の「駅家(
うまや)」名でもある。

つまり八千郷全体が、駅家を郷(里)名の
起源とする「駅家郷(
うまやのさと)」であったのだ。

そして何よりも陶という地名は、
古くよりこの地が須恵(陶)器生産に由来する
地域風土であったことを物語る。

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◆臂土器
幕末(天保十二年頃)、
長州藩によって編纂された
『防長風土注進案』などによると、

「推古天皇十九(611年)の時代、
百済国の第三王子である
琳聖太子(
りんしょう・たいし)が
この地の海岸に着船。

そこで、土地の者が臂(
ひじ)にて
土器を造り酒を供えたことにより、
これを臂土器と名付けた。


これにより、土器づくりがこの地の
産業となり地名の由来となった。」とある。


「琳聖太子」は、室町時代に周防国を根拠地に、
六ヶ国もの守護代名として栄華を誇った大内氏が、
その始祖として崇めた伝承上の渡来王子である。

(大内氏の直接の祖先とは、製鉄・鍛冶技術を有する
朝鮮半島からの渡来集団で、多々良(タタラ)氏を称する
周防国府の在庁官人であったとされる。)

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陶には、「艫綱(
ともづな)の森」という琳聖太子が
この地に上陸したとされる場所が寄船大明神として
祀られている。
(* 昭和四十六年、国道二号線工事のため、
約二百メートル北の現在地へと移設されている。
)

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石碑には、
「琳聖太子之舊跡(
きゅうせき)
推古天王十九年十二月二十七日着岸
釜山(
かまやま)臂土器根元(こんげん)」と
刻まれている。


(②へと、つづく)

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(2015/08/16)

桑山塔ノ尾古墳(備忘録)・①

2014
●≪落陽(防府平野)≫水彩・色鉛筆、紙

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“十一年の春二月の癸酉(きゆう)の
朔(
ついたち)にして丙子(へいし)に、
来目皇子(
くめのみこ)、
筑紫(
つくし)で薨(こう)じた。

・・・・・そうして周芳(すわ)の娑婆(さば)で
殯(
もがり)をした。
土師連猪手(
はじの むらじ いて)を遣わして、
殯のことを掌(
つかさど)らした。

そこで、土師連猪手の子孫を
娑婆連(
さばのむらじ)というのは、
この由縁である。

後に河内(
こうち)の埴生山(はにふやま)の
岡の上に葬(
はぶ)る―。 


*『日本書紀』巻二十二 推古天皇(十一年二月)より
 



               
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  「桑山塔ノ尾(
くわのやま・とうのお)古墳」とは、
   現在の山口県防府市にある桑山(標高107.4m)

   “塔の尾根”にかつて存在した、
   古墳時代後期(6世紀中葉)の古墳である。

   出土遺物は山頂に再埋納されており、
   現在、山頂の1区画が宮内庁の陵墓参考地として
   「来目皇子
殯葬地(くめのみこ・ひんそうち)」に
   治定されている。


●古墳の発見は、1785(天明五)年4月、
  三田尻御茶屋(現、防府市英雲荘)に隠棲した
   長州藩の前藩主・毛利重就(
もうり・しげたか) が、
   桑山の塔ノ尾根に納涼亭を営むための普請工事を
   起こしたことによる。

   桑山(
くわのやま)は、佐波(さば)川下流域に広がる
   防府平野のほぼ中央に位置する独立丘陵である。
   
   
古墳は桑山の山頂から北東に派生する
   塔ノ尾根の標高45メートル付近に立地していた。
  現在の桑山護国神社広場の北側で、

  「桑山招魂場碑」が
建つ小高い丘の上がそれにあたる。

●古墳(墳形不明)は発見直後に消滅したたものの、
  出土した遺物は重就の命により
   石の箱(石匣/
せきこう)に収められ山頂に
   小祠を設けて再埋納された。

   石の箱には、発見から再埋納までの事情などが
   『石匣之記』として、重就の侍講を勤めていた
   瀧鴻(
たき こう)によって刻まれている。 

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●≪来目皇子殯葬地/桑山山頂≫ 水彩・色鉛筆、紙

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●古墳の発見から37年を経た1822(文政5)年―。
  三田尻勘場(代官所)の下代役で
   国学者でもあった斉藤貞宣(
だよし)によって、
  本古墳を総合的に考察した『桑山古墳私考』と
  題した論考が著された。

●『桑山古墳私考』、『防長風土注進案』の
  絵図や記録に残る遺物は、〈銅鏡・石製模造品・
   鉄刀・鉄矛(
ほこ)・鉄鏃(やじり)・甲冑(かぶと)・
  蛇行状鉄器・金銅製飾履(
くつ)・玉類・耳環・馬具・
  土師器・須恵器〉等である。
(つづく)
 

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(2014/11/28)

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